フォークビレッジ物語 | ![]() |
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第1章: 原点 | 第2章: 開店 | 第3章:フォーク連合 | 第4章: 現在 | |||
2001.9.11開設(2003.8.20更新) |
第一章 フォーク・ビレッジの原点 | |||||
ジュニアそれいゆ表紙 |
2001年、ロマン溢れるレトロ観光地として整備され多くの観光客が訪れている北九州市の門司港、1940年代までは中国大陸及び九州の玄関口として、大陸航路・欧州航路の大型客船や始発駅の列車へ乗り降りする人々で溢れかえる世界有数の港町であった。また、当時の門司港は、人や物の往来とともにジャズを始め世界の最新洋楽がいち早く伝わり、第二次世界大戦前のまだまだ自由で穏やかな良き時代のなか、音楽同好会の結成、演奏会の開催、若者たちのジャズバンドなどアマチュア及び市民の音楽活動が大変盛んであった。なかでも、これら音楽文化の情報発信拠点が、今も営業を続けている栄町商店街の楽器店「日蓄商会(現社名:ニッチク)」であった。この「日蓄商会」に、1930年代勤務していた両親を持つ小野の家には、蓄音機や多くのレコードがあり、まだまだ戦後復興期の物の無い当時としては、非常に恵まれた音楽環境の中で、小野は幼児期を過ごしたのである。 幼児期の記憶では、童謡・唱歌等のレコードを姉と一緒に手回しの蓄音機で遊びながら聞いていた、特に「赤坂小梅」の小唄は、今でもよく印象に残っているという。 少女期は、姉のかける「ダークダックス」のレコードを毎日聞かされる中、ピアノを習い始め、当時高校生であった「ポールアンカ」や「ミッキーカーチス」、そしてウェスタン歌手の「守屋浩」「かまやつヒロシ」「井上ひろし」の「三人ひろし」等の音楽紹介が載っていたファッション雑誌「ジュニアそれいゆ(1956年創刊)」等をよく読んでいた。 1964年、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」が日本で始めてリリースされる頃には、友人と「ビートルズ」のレコード収集やブロマイドの複写に熱を入れていたが、1965年、PPMの「朝の雨」を聞き、彼等のハーモニーの上手さや曲の美しさに魅かれ、すぐにガットギター(当時、店頭にはフォークギターは無かった)を購入するともに個人主宰のクラシックギター教室に通い弾き始め、1966年には友人の紹介で念願のPPMスタイルのバンドを組むが、コンサート等発表する場もなく解散してしまった。 [※発表の場であるフォークコンサートは、福岡より1年早い1967年9月24日に、小倉井筒屋文化ホールで「ザ・フート」等4バンドが出演する第1回フォーク・ソング・フェスティバルが開催され、その後翌年の2月から毎月1回の「サンデー・フォーク」に発展する。] 解散後、ラジオから流れるボブ・ディランを聞き、その音楽・詞に感動を受けてからは、ずっと一人で好きな曲を拾い集めギターを弾きながら時間を潰していたが、1969年10月通っていたヤマハのフォークギター教室で、ある女性(K・S)と知り合い、バンドを組もうという話に意気投合し、彼女の家に泊まり込んでは練習を続けた。しかし、練習の合間の議論の中、それぞれ味のある歌を唄いたいと思い始め、そのためには二人より一人の方が個性が出せるのではという事になり結局バンドの話は消えてしまった。また、その間に八幡東区にあった西日本テレビ本社の地下で練習していた新日鉄のバンド「ザ・フート」や、若松フォークソング研究会のバンドと「レットイットビー」を共演するため練習していたアンドレ・カンドレとの出会いがあった。 [※この年に、KBCラジオ「歌え若者」及びRKB「スマッシュ11」が、放送開始しアンドレ・カンドレ(現在の井上陽水)がレコードデビューする。] 1969年、東京フォークでも、関西フォークでもない北九州サウンドを創出しようとして結成された「北九州フォーク連合」に参加、ここで多くの音楽仲間に出会いオリジナルを競い合うとともに、自分たちの発表の場であるコンサートの開催、プロデビューしているフォークシンガーを招いてのコンサートの企画・開催、関西フォーク等との交流、機関誌の発行などいろんな事をがむしゃらに経験したのであった。当時の機関誌から、フォーク連合の活動の一端を拾って見ると、 1970年 4月 5日 第1回オリジナルコンサート開催 4月25日 第1回『100エンコンサート』YMCA体育室 主催:ぐるうぷ「明日のうた」 5月 月刊誌「北九州フォーク連合」創刊 5月 9日 スプリングフォークフェスティバル開催 [会場:松田楽器店] 出演者:尼ヶ崎HANPOの会 ビリーバンジュニア 北九州フォーク連合他 主催:北九州YMCA 北九州フォーク連合 5月17日 第2回オリジナルコンサート開催[会場:エリート] 5月21日 黒井村ハイキング 6月 小倉北区京町11丁目みつわビル3階に事務所を開設 6月15日 「シューベルツ」さようならリサイタル [会場:小倉市民会館] 7月16日 「五つの赤い風船」リサイタル開催 [会場:八幡市民会館] 西岡たかし 藤原秀子 東祥高 長野隆 ※この時小野は、オリジナル「夜明けの子守唄」 を熱唱。(録音テープを最近頂いた) 7月19日 TNCサンデーフォークに出演 7月23日 九重でフォークキャンプ (若松フォークソング研究会) 8月16日 「シャデラックス」とフォーク連合ジョイントコン サート 8月19日 「杉田二郎と1億分の4」コンサート [会場:八幡市民会館] ※このコンサートで、フォーク連合のバンド「サボ イヤ」解散 8月20日 九重で3日間フォークキャンプ (北九州フォーク連合) [九重やまなみ荘] ※この時ゲストに遠藤賢司参加 8月29日 FOLK、フォーク、ふぉーく開催 [会場:老松公民館] ※M・F・C[門司フォークソング愛好会]とジョイ ントコンサート 12月23日 クリスマスコンサート開催[会場:八幡市民会館] 高石友也 アンドレ・カンドレ 海援隊 ジョア ンジルベル12世他 1971年 1月17日 北九州大学で月例会コンサート開催 4月25日 「ぐるうぷあすのうた」発表会 [会場:YMCA会館] 6月15日 西日本フォークキャラバンコンサート開催 [会場:新小倉ビル] 古川豪 大出泰孝 小野和子 8月 第1回北九州フォークジャンボリー開催 東野ひとし 11月16日 ガッツのコンサート開催 (主催YMCA所属ガッツの会) [会場:新小倉ビル] 1972年 2月27日 小野、名曲「きかせて欲しい」を作詞 2月28日 下関市長府の公民館で開催されたコンサートに行く 3月11日 「春が来た」コンサート[会場:新小倉ビル] 8月 第2回北九州フォークジャンボリー開催 東野ひとし そして1971年の秋には、COM(小泊)とバンド(Two Pennys)を組み、当時同姓同名のシンガ−ソングライター小野和子(現在水戸市在)のコピー曲を新小倉ビルで開催されたキャラバンコンサート等で歌った。この間にも、ラジオ番組「ユーアンドミー」に牧田裕のペンネームで投稿した自作詩「フィーリングラブ」が、応募者多数の中から採用され、人気アナウンサー「カジ・ミエコ」に番組の中で紹介され、その収録カセットテープが送られたこともあった。その後、田村孝之を加え3人のバンドで、勝山公園や門司区内のコンサートに出演した。この頃、「甲斐よしひろ」が出演していたライブハウス「照和」に、出てみないかとの話しもあったが、北九州で十分音楽活動が出来ていたので断ったが、今から考えれば惜しいことをしたものである。 1974年、ファミリーバンドを夢みて結婚したが、子育てとともに音楽活動からは遠ざかってしまったが、それでも年1回程度(下に記録に残っているものを掲載)はコンサート会場に足を運んでいた。特に、フォークロックの「アリス」、解散後は真摯な詩に興味を持った「谷村新司」のコンサートは毎年欠かさず出向いた。 1981年 5月30日 コンサート[戸畑音楽ホール] 1990年 2月26日 谷村新司コンサート[九州厚生年金会館] 1991年 3月15日 谷村新司コンサート[九州厚生年金会館] 1992年 3月24日 谷村新司コンサート[サンパレス]
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かまやつ ヒロシ |
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ミッキー・カーチス |
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ポールアンカ |
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機関紙の表紙 |
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春が来たコンサート |
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ミーティグ風景 |
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![]() 能古島サマースペシャルナイト1 |
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![]() 能古島サマースペシャルナイト2 |
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![]() 能古島サマースペシャルナイト3 |
第二章 フォーク・ビレッジの開店 | ||
1992年冬、子育ても一段落した主婦小野は、自分の生きがいを見つけるため、小物店を友人と開店、その時看板のデザインを依頼したのが風の頼りにデザイナーとして独立している事を聞いていた小泊であった。それは、バンド解散以来、約二十年ぶりの再会となり、その後もう一人のメンバー田村との再会の機会ともなった。旧交を温める中、カラオケ全盛のスナック等には、自分たちの唄う歌がないこと、いつか昔のフォークを復活させる事などが大きな話題となっていった。そうした中、1993年小物店を辞めた小野は、次なる生きがいを模索していたが、どうせやるなら「自分が楽しみたい」ものをとの思いから、二人に相談したところ昔のフォークを復活させようと意気投合、「フォーク・ビレッジ」の実現へと一歩近づいたのであった。 そして、1994年春、開店の意志を決めたメンバー三人は、本格的に店探しを始めたのであった。しかし、バブル崩壊後とはいえ、繁華街の中となると家賃、敷金も高く、また店の性格(騒音等)からいって街外れがあるほうが返って人が寄り付きやすいということで、中央町、城野辺りを探したが、結局メンバーがバンド活動をしていた辺りの砂津に落ち着いたのであった。 しかし、開店まで一波瀾があった。それは、店の賃貸契約の前日、資金調達等で疲れがピークとなっていた小野は持病の喘息をこじらせ緊急入院となったのであった。が、そこは持ち前の負けん気により、翌日には一時退院し、なんとか契約を済ませたのであった。 それから、猛暑の中いよいよ開店に向け店の改修へと進むわけであるが、そこはメンバーの本領を発揮し、ほとんど手づくりで1994年7月23日土曜日開店した。 |
第三章 北九州フォーク連合とその後 | |
フォークビレッジ開店のきっかけ、そして三人の青春であったフォークソングの活動舞台、それは1969年結成の「北九州フォーク連合」である。 その結成目的は「東京、関西、アメリカフォークでもない独自な北九州サウンドを求める」とあり、若者らしい崇高な理念を掲げていた。しかし、フォークソングを基本体としていたが、聞くだけの人、絵を画く人、詩を書く人等文化的な興味、特技を持って同調する人は全て会員とするユニークな音楽団体でもあった。 したがって、その組織活動も、フォークソングのみでなく小倉北区京町の事務所を本拠に、読書部、新聞部、旅行部、時事研究部、娯楽部、ビートルズ研究会等多彩な諸活動を行っていた。 また、フォークソングでの主な活動は、毎週日曜日の勝山公園でのコンサート、九重やまなみ荘でのフォークキャンプ、「五つの赤い風船」を呼んでのリサイタル、関西のフォーク団体等他団体とのジョイントコンサート等活発に活動していた。ちなみに、その頃市内には、北九州フォークソサィアティー[KFS]、サンデーフォーク[あすなろの会]、YMCA、門司フォークソング愛好会等フォークソングの音楽団体があった。 しかし、隆盛を極めた北九州フォーク連合も、会員の就職、結婚等により自然消滅したが、そのなかからフォークグループ「駈落舎」が結成され、1976年頃まで活動を続けた。 さて、フォークビレッジ開店を機に一人・二人と集う当時の仲間の中から、一度同窓会をやろうとの声が上がり、1994年10月15日合同の同窓会をフォークビレッジで開催した。 当日は、清藤氏、鈴木氏、山本氏夫妻、佐藤氏、上野氏、布谷氏、中嶋氏、柳井氏そしてビレッジの三人を含めた北九州在住者12人が集まり、それは大変な賑わいであった。フォーク連合の活動以来20数年の歳月を経て、お互い容姿は大きく変わったが、歌う心、フォークへの想いは何も変わってはいなかった。 ただ、少し離れていただけであった。それは、アルコールによって加速され、一気に昔の友・仲間に戻り、そこは昔取ったなんとかで、ソロコンサートを行う者、独演会をする者などフォークソングの大合唱となった。 なお、川崎在住のため来られなかった濱島さんからは、近況の手紙とともに当時の写真がたくさん送られてきました。みんな、その写真を見て若い自分に酔いしれるもの、現在を嘆くものなど、またまた一段と話が夜の更けるまで盛りあがっていた。 |
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現在の姿 |
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当時のスナップ(上3枚) |